動乱・バレンタイン編


久樹氏が24歳の誕生日を迎えたその翌日、

とうとう今年もこの日がやって来てしまった。

時に2月14日…

いわゆる聖バレンタインデーというやつである。

製菓会社の販売促進戦略に巻き込まれるのが嫌だ…という事も

あるのだが、私と弟は幼少時より甘物を摂ると気分が悪くなると

いう因果な体質故、こういう甘物絡みのイベントは可能な限りは

避けているのだが、この日ばかりは避けようが無い。

…贅沢な悩みだと言うなかれ。こっちは必死なのだ。

 

子供の頃、母のいいつけで茶道(確か武者小路千家という流派

だった)をやらされていた時は地獄を見た。

別に茶道独特のあの雰囲気は嫌いではない。むしろ好きだ。

正座が苦なわけでもない。今でも3〜4時間程度なら余裕だ。

ただ、「お茶菓子が出る」という事だけが辛かった。

練習の時は出ないからまだいい。

ただ、母に連れられて月一度の茶会に行くのが嫌で(弟も一緒に

連れて行かれるのだが、弟は嫌がって泣いた事がある)その日が

近付くと、私はいかにしてそれを断るかを必死で考えたものだ…。

 

話が逸れてしまったが、とにかく私はそれくらい甘物が苦手だ。

既に入社1年以上の女子はそれを理解してくれているからいいが、

問題は事情を知らない新卒やバイトの女子なのだ。

戦いは既に前日の2月13日から始まっている。

まず、机の上。

「それ」を置けないよう、書類やらファイルBOX等の物を置きまくる。

なるべく段差を付け、その上に「それ」を置いた時斜めにずり落ちる

ような角度にするのが良い。

次に社員用ロッカー。

これは簡単だ。鍵を閉めて、鍵は自分で保管していればいい。

予備の合い鍵もあるのだが、これはベテランの女子社員…いわば

「お局様」がしっかりと管理してくれているので(感謝!)、後輩や

バイト如きではまず手は出せない。

後はバイトや新卒者の面倒をみている同僚に根回しをしておく。

…これだけやっておけば、少なくともうちの課の女子から「それ」を

贈られる心配はない…あとは直接持ってきたのを断るだけだ。

 

その考えが甘かったと気付いたのは当日になってからだった…。


2月14日。

弟がにわか登校拒否児童(もう高校2年だが)化する。

先に書いたが、弟も同じ体質なのだ(ついでに言えば父も)。

「一体どこのどいつだよ、あんな企画考え出したの…」

「受け取らなければいいだけの話だ、さっさと学校に行け」

何とか送り出して、いつもより早めに出社。

社員用ロッカーには何も入っていなかった。よし。

机の上を見ると、一見何もない。

よしよし…と思いつつ椅子を引くと、その上に「それ」が山積みに

なっていた…その数、大小合わせて5個。

カードに書いてある名前から察するに隣の庶務課の女子のようだ。

何たる不覚…他の課と椅子は盲点だった!

途方に暮れていると課長が出社して来た。

「やられたか?」

「…やられました。椅子の上は盲点だった…」

「しかし、食べ物を椅子の上に置くのはいただけんな」

正論だが、論点が124度程ズレている。

そのうち、同僚や後輩も出社して来た。

「くぅ〜っ、いいよなあモテる男は!」

「いいなぁ先輩、出社するなり5個ももらっちゃって」

よくない!!(T_T)

ひきつりながらも何とか笑って誤魔化す。

出来る事ならば、彼女達には申し訳無いが返してしまいたい。

私が君らに一体何をしたと?

それにうちの信仰は神道だ、何故キリスト教の行事などに

巻き込まれねばならんのだ…。

義理ならいらん、本命なら気持ちだけにしといてくれ!

などと理不尽な怒りをどこへぶつけようかと逡巡していると、

女子が次々と出社して来た。

恐らく、この時の私はかなり怖い顔をしていただろう。

それに恐れをなしたか、それとも根回しの効果があったのか、

私のいる課からは誰も持って来なかった。

しかし、安心するのはまだ早かった。


3時頃、女子社員達が男子社員全員に何かを配り始めた。

その途端、「それ」独特の匂いが課に充満する。

「あの…それ、何?」

「何って…チョコレートケーキですよ」

そういう問題じゃない!

「いや、それは見れば分かるけど…何で?」

「△△さん(新卒の女子社員)が作ってきてくれたんです。

うちの課の男子全員の分」

死の宣告を受けた気分だった(大袈裟)。

こちらは匂いだけでもKO寸前だというのに・・・。

できる事ならその場で卒倒してしまいたかった。

とにかく「それ」から視線を逸らすためにふと横を見ると、

事もあろうに当の彼女と目が合ってしまった。

彼女に悪気など微塵もないのは分かっている。

だが、持って生まれた因果な体質だけはどうにもならない。

しかし…!

苦悩する事数分、ついに吹っ切れた。

『…もういい、こうなったらケーキだろうがお茶菓子だろうが

使徒だろうが(おい)食ってやろうじゃないか!』

何とか「それ」を胃に収めた後、廊下の自販機で缶コーヒー

(当然ながら無糖のやつだ)を買い、一気に干す。

…よし、悪は滅びた!(←何か間違っている)

 

しかし、伏兵は思わぬ所に潜んでいたのだった。


顔面蒼白となりつつも仕事を続け、珍しく定時で退社。

フラフラになりながら家に帰ると、紅龍が遊びに来ていた。

「…久しぶりだな」

「うん。あ、そうだ。これ!」

紅龍はそう言いながらゴソゴソと鞄を開けると、その中から

一際大きな「それ」を取り出したのであった。

私がその場に倒れたのは言うまでもない。

弟に至っては部屋から出て来ようともしなかった。

 

もうイヤだ…頼むから私をそっとしておいてくれ…。

 

紅龍が帰った後、弟がようやく部屋から出てくる。

「光流(弟、仮名)…どうだった?」

弟は某古書店店主のような仏頂面で、黙ったまま紙袋を

持ち上げて見せた。

どうやら、その中身全部がそれらしい…。

「………断り切れなかった」

私は内心『…勝った!!』と思った。

…いや、勝ってどうする!

「…なあ耶雲…これ、どうする?」

「…どうしたものか…」

私は(贈ってくれた人達には大変申し訳ないが)必死で

「それら」を処分する方法を考えていた。

1、久樹氏に押し付ける。

2、破裏拳えるまー氏に押し付ける。

3、DMに押し付ける。

「耶雲…それ、全部同一人物だぞ」

…そうだった。

完全に気が動転してパニックに陥っていた。

その時、久樹氏から電話がかかって来た。

理由を聞くと、

「何か電波のような物が来たような気がした」と言う。

「そうか、電波か…DMは誰かにあげたのか?」

「製菓会社の企業戦略ごときに注ぎ込む金などない!」

やはり考える事は似ているようだ。

「そっちこそ、幾つかはもらえたのか?」

「4〜5個は」

正確にはついさっき1個増えたので6個なのだが。

弟の分も合わせると…いや、考えるのはよそう。

「だが、私と光流は甘い物を食うと気分が悪くなるからな

…もし出来るなら引き取り手を探したいくらいだ」

「ん、いいよ。タダなら。今度行った時にでも」

「済まん…それで、今度いつ来れる?」

「ん〜、いろいろ就職活動とかあるし・・・3月始めくらい」

私は硬直した。…少なくとも半月弱はある。

…それまで、この紙袋一杯の「それ」と生活空間を共に

しなければならないのだ。

 

…正に悪夢だった。

 

とりあえず電話が切れた後、「それ」を包装紙で包んだ後

冷蔵庫の一番奥に突っ込む。


3月始めに久樹氏がやって来る。

しばらく雑談をした後、冷蔵庫から「それ」を取り出した。

私の分を一通り検分した久樹氏の表情が険しくなった。

「…おい耶雲」

「何だ?」

「この3つ…どう考えても本命だぞ」

「…え?!」

「この一際でかいのなんか特に」

「それ…紅龍から貰ったんだが」

「ぬぅ、あやつも隅に置けんのう…」

まるで悪代官のような事を言う。

「耶雲の分はこれで全部か…で、光流の分は?」

紙袋一杯の「それ」を見た時、流石の久樹氏も絶句した。

「こいつは…ものごっつきっついのう…(-_-;)」

「まったくだ」

「…大体、耶雲は優しすぎるんだよな」

そんなつもりは全く無いのだが。

 

とにかく、これで来年まで甘物の脅威は去った事になる。

これで一安心だ…。

…同時に、いくら体質とはいえ贈ってくれた人には申し訳

無いと思った。

とりあえず、気持ちだけは受け取らせてもらう事にする。

それに応えられるかどうかは分からないが…。


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